刀の長さ 2尺3寸5分が標準2尺4寸5分まで2尺5寸以上は長寸代金が加算されます 刃文 和泉守兼定 柄色 時代黒正絹 鞘色 茶石目艶 鮫色 白 縁金具 土方(真鍮) 鍔 土方(鉄) 目貫 山椒(真鍮) ハバキ 祐乗(真鍮) 納期:☆
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土方俊三は近藤勇、沖田総司らと幕末に新選組を組織して副長となる。
武蔵国石田村(東京都日野市)、土方義諄(よしあつ)の4男として生まれる。
実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、近藤周助のもとで天然理心流剣術をまなび、 近藤勇と同門となる。
近藤道場(試衛館)の仲間とともに、歳三は文久3年 (1863年)2月、幕府の征夷大将軍徳川家茂警護のための浪士組に応募し近藤勇や沖田総司らと京都へ赴く。
清川八郎らが意見の対立で江戸にもどったのちも京都にのこり、芹沢鴨(せりざわかも)、初代局長、芹沢鴨の暗殺後も、2代目局長の近藤勇をたすけて洛中洛外の警備にあたった。
64年(元治元)の池田屋事件で、彼らの名声は一躍高まる。
1868年(明治元)の鳥羽・伏見の戦( 戊辰戦争)では近藤にかわって隊を指揮するが、やぶれて江戸にもどった。
その後、名を内藤隼人(はやと)とあらため、近藤らと甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織して甲斐国勝沼(山梨県甲州市)で官軍とたたかい、下総国流山(千葉県流山市)に敗走。
近藤らがとらえられたのち、小山、宇都宮、会津と転戦、奥羽列藩の脱藩兵らとともに榎本武揚のひきいる旧幕府艦隊に合流して、蝦夷地にわたった。
翌69年、箱館(函館)に成立した蝦夷島政府では陸軍奉行並(ぶぎょうなみ)に選任されたが、5月の五稜 郭での抗戦中、銃弾にあたって戦死した。
墓は日野市の石田寺(せきでんじ)にある。
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